プモリ 7165m 遠征 (2007年9月〜10月)

 Pumo Ri Expedition (September to October, 2007)

 

  プモリ 7161m (最近の市販の地図では7165m)。地上最美の山と賛美を受け、美しい山として知られている。プモ(Pumo)はシェルパ語で乙女や少女の意で、リ(Ri)は山である。あたかもエベレストの娘のようになる。アルファベット表記ではPumo Riであるが、Pumoriと書くことも多い。戦前の英国のエベレスト遠征隊でエベレストから還らなかったジョージ・マロリーが名づけたと言われる。恐らく、マロリーはシェルパに、「あの山は乙女のような美しい山だな。乙女はシェルパ語で何と言うんだ?」と、いうようなことを聞いたに違いない。但し、マロリーはチベット側からエベレストに行っており、上の写真のようなネパール側からのプモリは見たことはないと思われる。

  プモリは見る分には美しい。登るのは雪崩が多くいやらしい山だ。最も多く登られているノーマル・ルートは南東稜から東稜に出て登るルートである。技術的な難易度は高くはないが、雪崩の巣のような場所を通るため危険性が高い。2006年11月に日本隊とイタリア隊のシェルパがそれぞれ二人ずつの合計4人が雪崩にやられた。南稜はノーマルルートの次に多く登られており、雪崩の危険は少ないが、岩登りの要素が多くなり、技術とパワーを要する。地球温暖化にともない雪が減少して岩の露出が多くなっているため、以前より困難度が上がっていると思われる。1973年に登攀クラブ隊がこのルートの初登攀をした。なお、西壁からは1975年にクラブ雲峰隊が初登攀している。プモリの初登頂は1962年のドイツ・スイス隊である。東稜は東西に長いため、ノーマルルート以外にも南面からは多くのルートがとられている。

 

<全日程:2007年9月17日〜10月27日> 

プモリ遠征記(1)
2007年9月17日〜10月27日のプモリ登山(南東稜から東稜のノーマルルート)についてエピソードを何回かに渡って記したい。

まず、プモリ登頂はならなかった。
(1)原因としては、9月頃の降雪が多く、例年以上に不安定な積雪が多いことから、昼夜を問わず雪崩が頻発していたためである。またモンスーンの終わりがはっきりせず、10月になってからも天候が悪いことが多かった。滞在中はモンスーンの終了宣言は出なかったようである。
次に登山時期が早すぎた。プモリはただでさえ雪崩が多い山であり、昨年は4人のシェルパが雪崩の犠牲になった。従って、雪の安定を考えれば11月後半から12月にすべきであったかもしれない。但し、寒気対策は十分にしないといけない。
我々の登攀活動中にも大規模な同時多発雪崩があった。長いプモリ東稜の上部から一つ雪崩が発生すると、誘発された3〜4つの雪崩が次々と発生し、東稜からの南面全体が雪崩とその雪煙に覆われた。丁度ルート工作中であった4人のシェルパは、周囲が見えない場所にいたため突然雪煙と小石が降ってきて恐怖に襲われたようである。1人は小石が足に当たりあざができた。かなり下部にいた我々にも雪煙が降り注いだ。
(2)次に雪が柔らかくて締まりにくいことから、スノーバーが効きにくかった。下手をするとユマールを持ち上げると一緒にスノーバーが抜けてしまうこともあり、安心できない。異常な天候もあるが時期が早すぎたであろう。

次に隊の編成の問題がある。ある全国組織の山岳会の有志が集まった<非商業>公募登山隊であるが、元々はお互いが知らない者同士である。普通の単一山岳会の気心の知れた仲ならば笑って済ませられることも口論の種になったりで、ギスギスした雰囲気の不愉快なことが多かった。
その他、数々の話題があり、今後記していこう。

写真はプモリBCからのプモリと南東稜。この枠内の写真はクリックすると拡大します。
プモリ遠征記(2)
行程(BC到着まで)


9月17日(月)成田→BKK BKK空港内のホテル Miracle Grand宿泊
9月18日(火)BKK→KTH Sherpa Guest 宿泊。Hawleyオバちゃんの代理人Shrestha氏のインタビュー
9月19日(水)コスモトレック訪問打合せ、スタッフ紹介。サーダーと別にシェルパが3人、クックとスペシャルキッチンとキッチンボーイが2人。なお、BCまで別途サポーターが1人ついた。民族的にはタマンが6人、ライが3人。この前日マオイストが政権離脱を表明した。
9月20日(木)ボダナート近くの寺でプジャ
9月21日(金)曇り後晴れ夜雨 KTM→Lukla,Phakiding
9月22日(土)晴れ後曇り Phakding→Namche
9月23日(日)晴れ後曇り Namche →Photse 10日〜2週間前の大雨でPhunki Tengaの橋が流されたため,Tengboche に行けず、Phortse 廻りでPangbocheに行くことになった。
9月24日(月) 雨 Phortse→Periche Pericheの手前の橋も流されており、少し下流の仮設の橋を渡る。ゾッキョ(ヤクと牛の1代交配種。ヤクよりおとなしく使いやすい)25頭も無事渡った。
9月25日(火)雨時々雪 Pericheで停滞。4600m〜4700m以上の高さでは雪で白くなった。皆さんロッジで食欲旺盛でよく食べる。
9月26日(水)曇り時々雨 (高い所は雪)Periche→Lobuche 到着、昼食後ロッジの後ろの丘で高所順応。風邪気味だったのが、油断してまた悪化した。朝、プラバールの中が雨で濡れないか口論があった。
9月27日(木)晴れ Lobhche →Gorakshep カラパタールで無線交信テスト。風邪で調子が悪くカラパタールに登るのは途中でやめ、花の写真撮影。
9月28日(金)曇り時々小雪 Gorakshep→Pumo Ri BC (約5300m) 。午後ルート偵察。BCは美しい氷河湖(水の使用可)を見下ろす尾根上にあり、眼前にプモリ、その対面にエベレスト、ヌプツェが間近の聳え、背後のチャンツェ、クーンブツェ、リンテルン、下方にアマダブラム、タボチェ、チョラツェなどに囲まれた、これ以上ない素晴らしい場所である。


写真はBCから見た夕焼のヌプツェ7861m。写真をクリックすると大きな画像が出ます。
 
プモリ遠征記(3)
BC到着以降の行程(1)

9月29日(土)曇り 休息日。個人装備、共同装備の点検とBC用・高所食料の開梱。
9月30日(日)曇り時々小雪 朝、安全祈願のプジャ。スタッフはルート工作、約250m済み。メンバーはルート偵察で約5650mまで。後はBCのて高所食料のリパック。
10月1日(月)晴れ BC→High Campのデポ地→南東稜取り付き5700m→BC Sherpaが置いたデポ場所が悪いと難癖をつけたメンバーのためデポ場所を少し移動。Sherpaが帰りに場所が分からないと困るため彼らが戻るまで待っていた。
10月2日(火)晴れ 休息日。サーダーのツルさんと打合せ、C1以上は雪崩の危険性が高いためC2の高度順化はせず、一発でアタックをすることにした。
10月3日(水)晴れ BC→High Camp(デポ地)High Camp に向かう途中、同時多発雪崩が発生。3〜4つの雪崩が誘発しながら全体としては非常に大規模な雪崩となった。ルート工作中のスタッフは周囲が見えない場所におり、突然雪崩に遭遇した。Danは石がひざのしたにあたった。Hitmanはショックが大きそうだった。High Campで合流し、引き返す。夕食後、今後のことを相談。登攀続行を確認。
10月4日(木)曇り 視界が悪く停滞。キッチンのミンマはリエゾンオフィサーの出迎えでLuklaへ下った。
10月5日(金)曇り 視界が悪く停滞。裏山へ散歩。
10月6日(土)曇り BC→南東稜5900m→BC 上部は霧で視界が悪くC1予定地まで行くのを中止。
10月7日(日)晴れ スタッフはC1建設のため早朝出発。H氏とエベレストBCへ。タイからの初登頂を目指す大登山隊が一隊のみである。サーダーのツルさんによるとC1以上は雪がフワフワでスノーバーも効かず、ルート工作は困難。夜の打合せでC1以上の登攀活動と登頂は断念した。
10月8日(月)メンバーの3人はC1タッチを目指しスタッフと出発。High Campから上は足が動かず、他の二人も疲労で引き返した。夜、コスモと日本の留守本部に登頂を諦め早めに下山と連絡。
10月9日(火)曇り 休養日。S氏がルート選定と時期について疑問の発言。確かに登山時期は早すぎたが、計画段階でデータを示し議論したのに今頃言われても困る。他にも研究会では何も意見を言わずに山に来てからゴチャゴチャ言う御仁がいて閉口した。

写真は雪崩による雪煙。撮影後暫くしてから撮影地点にも雪煙が襲った。
プモリ遠征記(4)
BC以降の行程(2)

10月10日(水)曇り後晴れ 朝方視界が悪く停滞 High Campにデポ品を回収に登ったがやはり調子が悪い。
10月11日(木) 晴れ C1タッチのため、3人とスタッフ4人が出発。ここ数日来高所の体力が全くなくなっており、息が切れ足が動かない。風邪薬を飲み続けたせいか?SPO2も下がったようだが、風邪薬とSPO2の関係があるだろうか?遅れて迷惑をかけないようにと荷物を担いでくれるという申し出を断れなかった。そこまでしてもらって登るつもりもなく、気力も失せ登るのを止めた。
10月12日(金)快晴 撤収準備 
10月13日(土)晴れ後曇り 撤収日。BC→Dingboche ヤクのBC到着が遅れ、また岩石だらけの道のためヤクのDingbocheも大幅に遅れ、最終は19時頃になった。5時過ぎ頃から夕食をどうしよう、ロッジはどこも満室で、テントが来なかったら寝る所をどうしようと、うろたえる御仁がいた。7時か7時半まで待ちましょうと言うと、荷物が来なかったらどうするのだと怒り出す、一部の短気な日本人。小事はあわてず騒がず、物事は何とかなるものだ(ロッジのオーナーが懇意にしている人の弟であり目論見はあった)。
10月14日(日)曇りDingboche→Namche
10月15日(月)Namche→Lukla
10月16日(火)曇り(KTMは雨)Lukla→Kathmandu 飛行機の到着が遅れやきもきした。ルクラの天気はそんなに悪くなかったが、空路の途中から雨、カトマンズはかなり強い雨。飛行機が飛んだのはラッキーだった。ホテルの風呂で垢を落とし落ち着くも、風邪薬の連日の服用で胃がやられ食欲は全くなし。

日程よりも早く下山したため、ジョムソンに行きトロンパスの近くのKhatung Kangの偵察に行くことにした。
10月18日KTM→Pokhara この日は調子が悪く殆ど食べず
10月19日 Peace Pagodaハイキング後、国際山岳博物館へ
10月20日 Pokhara→Jomsom、Muktinath
10月21日 Muktinath→Thorung Pass(H氏)→Muktinath 私は近くのKhatung KangのBC及びルート偵察
10月22日 Muktinath→Kagbeni→Jomsom
10月23日 Jomsom→Pokhara
10月24日 Pokhara→Kathmandu
10月26日 Kathmandu→BKK、10月27日朝成田着

写真はHigh Campのデポ地から見たエベレストとローツェ。エベレストはサウスコルとノースコル、ローラの3つのコルが一度に見える。この形のローツェの写真は余りない。
登山隊の編成・組織について
 最近の海外登山は商業公募登山隊が真っ盛りである。主催者が全てお膳立てをしてくれ、優秀なガイドであれば実力以上の山を登らせてくれるから費用が多少高くても人気がある訳だ。山岳会に所属せずに、また国内の山もパスして海外の山に向かう人も多い。
  例えば、アイランドピークからチョーオユーに登り、次はエベレストに挑戦する人も多いこの頃だ。ある程度の体力と金があれば、条件さえ良ければ登れてしまうから恐い。
  今回の我々のプモリ登山隊は、ある全国的な大組織の山岳会の会員が呼びかけに応じて有志が集まったものである。完全な公募ではないし、商業的なものでもない。元々は面識の無いもの同士の寄せ集めである。普通の単一山岳のように知っている者同士のチームビルディングとは異なるものがあった。知っている者同士であれば多少の問題があっても笑って済ませられるようなことでも大きなトラブルとなることが多々あった。これにはコミュニケーション不足もあり、コミュニケーション不足が誤解を生み、誤解が不信感を生み、増幅していくといったものである。費用を節約するためのメンバーを増やすための混成部隊もこれと同様な問題が起きるであろう。単一山岳会の隊であれば、このような問題は少ないであろうし、商業公募登山隊であればメンバーは割り切り、またリーダー兼ガイドがうまくチームをまとめ問題は少ないかもしれない(私は公募登山隊の経験がないため聞いた話から推測)。
  一方、商業公募登山隊だけに慣れた人たちは国内を含め自前の登山の経験が少ないため、計画作成・準備に苦労するようだ。この部分は大変ではあるが一番楽しい部分でもあるだけに、経験を積んで自分でやれるようになって欲しいものだ。
自前の登山隊の場合には商業公募登山隊のように登らせてくれる訳ではないから登頂確率は低くなる。逆に言えば、商業公募登山隊の登る山は登頂確率の高い山かもしれない。自前の登山隊はそのような山は目指さないかもしれないし、余程実力がないと登頂できないことも多い。しかし、失敗しても自前の登山隊の得るものは大きいと思われる。一人当たり費用が多少かかっても、煩わしさを避けるために単独でガイドを雇い、6000m台のヒマラヤの山(未踏峰もまだ結構ある)を目指す人も多いようだ。

写真はリンドウの花。10月頃にエベレスト街道の4〜5000m位のあちこちでよく見られる。

 

                         登山スタッフの紹介

    一般にヒマラヤ登山隊のスタッフは余り紹介されていない。しかし、最近の大部分の登山隊は、「シェルパ」に大変お世話になる。お世話になるどころかおんぶに抱っこである。彼ら無しに登れる山屋は真に力のあるクライマーであり、数少ない。我々の隊のスタッフを紹介しよう。彼らの世話になっている日本人も多いと思う。
    ここでの「シェルパ」の意味は民族としてではなく、ルート工作・荷揚げ・ガイドをやってくれる、機能としての意味である。HAP(高所ポーター)とも呼ばれるが、ポーターと呼ぶのは仕事の重要さからいって正確ではない。そのためか、民族としてのシェルパがこの仕事を殆どしていたことから、この機能を担う人を「シェルパ」と呼ぶことが多い。最近はこの仕事にシェルパ民族以外にタマンやライ、グルンなどの他の民族も増えてきているため、事情が分からない人たちは頭が混乱することになる。
    さて、我々の隊のスタッフはシェルパ民族は居らず、タマンとライで構成されている。シェルパでなくても、元々彼らの田舎はアップダウンの多い山の中であり、子供の頃から上り下りで足腰は鍛えられている。体力は問題なく、経験と技術を積めば「シェルパ」になる。
  なお、名前でタマンとついているのは、民族名がそのまま苗字になっているからである。余談であるが、シェルパの名前には生まれた曜日名をつけることが多い。例えば、ニマは日曜日であり、ダワは月曜日、ミンマは火曜日、パサンは水曜日といった具合である。今回の遠征で興味深いこととして、シェルパ以外の民族もシェルパ語の曜日名を名前にしていることに気がついた。下の写真と名前をご覧頂きたい。

 Sardar:Tul Bahadur Tamang, 41才
 左から2番目。ツルさんと呼ばれており、遠征で世話になった人が多いと思う。兄弟もサーダー級。
 Sherpa:Prakash Rai, 32 才
 一番右。クックをやることもある。陽気な男。
 Sherpa:Hitman Tamang、37才
 一番左。ツルさんと親戚。気が優しい。本名はHit Bahadur Tamang
Sherpa:Dhan Kumar Tamang, 21才
右から2番目。一番若く将来に期待。ツルさんの親戚。
別にサポーターとして、Amrit RaiがいたがBCに到着後下山した。 

向かって右から
Cook:Binesh Rai, 29才
 日本料理が得意(どこのエージェントにも各国料理の専門のクックがいる)
Assistant Cook:Ang Dawa Tamang, 36才
クライミングもやり、そっちの方が好きとのこと
Kitchen Boy: Mingma Tamang, 35才
リエゾンオフィサーを迎えにルクラまでまた往復
Kitchen Boy: Mingma Tamang, 35才
タマンらしくない顔。親のどちらかがチェトリかバウン(インド系)だった

その他に、
BCに行く時はゾッキョが25頭とヤク使いが9人。帰りはBCからナムチェまではヤクが使われた。

  なお、ゾッキョはヤク(オス)と牛(メス)の交配種でオスのこと。交配種のメスは何と呼ぶか忘れた。ヤクのメスはナクと言う。ヤクといえばオスのみである。ヤクのチーズがうまいが、正確にはナクのチーズと呼ぶべきか!?

  

Pumori BC(5300m)からのPumori。南東稜は右下の大きな岩の部分を左上し、鋸状の氷河の上から右にトラバースしてから東稜のコルに上がる。

Pumori Bace Camp  and Pumori

Pumori Bace Camp and Mt.Everest

 Pumori BC。下は氷河湖で水は利用できる。奥はクーンブ氷河

 BCでプジャ(安全祈願祭)の準備

 登攀用具の準備

 High Campのデポ用テント, 5500m

 大雪崩の雪煙、この直後に我々の上を覆った。本文の写真も参照

 プモリ登高

 プモリ登高

  プモリ登高

 中央の小高いピーク(V字のカットが目印)の手前にC1

 途中遊びに行ったエべレストBC。タイの遠征隊のキャンプ

 デポ地でのくつろぎ

 サーダーのTulとシェルパのHitman

 左からLingten6749m、Khumbutse6665m。ネパールと中国の国境稜線。右奥に頭だけ見えるのがChangtse 7553m(中国領)

 BCで帰る準備中のヤク

 ディンボチェで荷物を積む前の逃げ回るヤク。シェルパニ (シェルパの女性)は威勢がよい

 トクラ・パスで一服のキッチンボーイ。後はバブ・チリ(有名なシェルパ。エベレスト頂上の最長滞在記録はまだ破られていない)の記念碑

 テンボチェで休憩

 モンジョの検問所

 

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