シッキム、ダージリン, カリンポン |
シッキム王国の昔の2回目の首都だったペマヤンツェからのカンチェンジュンガ(現地の発音はカンチャンジャンガ) |
シッキムはネパールとブータンにはさまれた、人口は5〜60万人とインドで最少の州である。州都はガントック、昔のシッキム王国の首都であった。シッキムは1975年にインドに併合された。王政による圧政に耐えかねて併合されたことを喜ぶ人と、併合されたことを今でも恨む人がいる。インドは住民の懐柔のためか、投資を進め、道路などのインフラはネパールに比べればはるかに良い。悪い冗談で言うと、もしネパールのモタモタが続くようならインドに面倒を見てもらった方が良い、とも思うくらいである。 ダージリンにはシェルパも流入した。ヒマラヤ遠征時代が始まった1920年代、ネパールは鎖国をしていたため、エベレスト遠征はダージリンからチベットに抜け、北側からエベレストを狙った。シェルパの高所能力や有用性に気がついた遠征隊はシェルパを積極的に活用したのである。従って、ダージリンがヒマラヤ遠征の基地となり、シェルパの供給地になったのである。 中印紛争のあおりを受け、シッキムなどとチベット国境は閉鎖されたり、周辺を含めてかなり入域が制限されていたが、最近緩和されつつあり、ナトゥラも通行が解除されたようである。今後、シッキムには入りやすくなるかもしれない。シッキムにはトレッキングコースが沢山あり、6000m級のトレッキング・ピークやカンチェンジュンガなどのヒマラヤ高峰も沢山ある。なお、シッキムに入るにはインド・ビザと別途ビザが必要である。私はダージリンで取ったため、二つの事務所を行ったり来たりさせられ、えらい時間がかかった。 河口慧海に関連して:河口慧海は約110年前に、チベット潜入前にダージリンでチベット語等を勉強した。ダージリンに入るときにはトイ・トレインで知られる小さな蒸気機関車で山を登っている。トイ・トレインはまだ現役で動いているが、スピードが遅いので普通は車で入る。ダージリンはイギリス人の避暑地であっただけに、美しい街と期待していたが、人口が急増し、排気ガスや埃が多く市内はイメージと違った。カリンポンも河口慧海が滞在していた町であり、チベットへの要衝であった。ここも旧市内は期待と違った。 |
ダージリンからのカンチェンジュンガ |
ダージリン近くの茶畑とカンチェンジュンガ |
カンチェンジュンガ(と思うが違うかもしれない) |
カブルー北峰7353mと南峰7338m(左) |
シムボー 6704 m (多分) |
シニョウチュウ 6778m (多分) |
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ダージリンの整備場の トイ・トレイン |
ヒマラヤ登山学校の入口 |
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ルムテック寺院
(チベット仏教の四大宗派の一つカギュ派の総本山。跡目の正当争いがあり、分立) |
ペリンの 旧シッキム王国の城跡(2番目の首都)。シッキム王国の最初の首都はルクサム、三番目は北シッキムで最後が現在のガントックであった。 |
カリンポンの近くの乗り合い自動車。ネパールでもお馴染みの風景。日本人によく似た顔の人もいる。 |
テミの市場の風景。固形石鹸と豆類、果物等の座売り |